Profile

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札幌市在住

石狩岳にて

・戦後団塊世代の中では若い(?)方で、良くも悪くも団塊世代が産み出した社会の大きなうねりに載ってこの年まで生きてきた。

・生まれは北海道北見市で、卒業までこの地域の水と空気で育った。氷点下 30℃ のなか土ぼこりが舞い上がる厳しく寒い冬、学ランで自転車通学、春の雪解け水が道端をチョロチョロと流れるのを見たときの感動、抜けるような青空、そんな気候風土の影響が自分の感性の中にも刻みこまれているように思う。

自然の中で

北見ケ丘

・近所の子供たちと遊ぶことが多かった。探検と称して周囲を歩くと食べるものは沢山あり、グスベリ、クサイチゴなどの他、木に登れば、コクワ、ヤマグワ、山ブドウなどもあった。畑のトマトも手に届く位置にあった。ダイコンを抜いて指で皮をむいてそのまま食べたこともあった。みずみずしく辛い味が記憶に残っている。

・母と歩いているときのこと、道端の花をみて"まあきれい"という母の声がなぜか記憶にある。何気ない周囲の花に時として感動を覚える感性は親からもらったものと思う。

北見時代の活動

「林道ツアー」

石狩川源流地域の林道

津別峠頂上付近より雄阿寒岳

・父から借りたバイクで林道を走り回り、地形図にルートを書き込んだり、見える山のピークと地図をつき合わせたりといったことを趣味にしていた。当時は今のように林道入り口のゲートも少なく、比較的自由に入ることができた。

・カメラも借りて持っていったが、林道はほとんどが暗い雰囲気で絵葉書のような景色は少なく、写真を撮るには不向きなところだった。しかし、それが、何気ない景色の中に"あえて撮る"価値のある構図を見つけ出すというトレーニングになったと思う。

・当時、特に気に入っていたのは津別峠、藻琴山など屈斜路湖の外輪山の林道だった。春になって雪が解け、崩れた林道の修復が終わってグレーダーで地面が整地され、少し日数を経てなじんだ時期がバイク走行に最適だった。6月から7月にかけての時期だろうか、快適なダート走行が楽しめた。

・バイクの悲哀は沢山経験した。ヘルメットなし、普段着のままだったので、快適な林道から未舗装の国道に出て、バスやトラックに追い越されると、瞼の中までジャリジャリになってしまった。屋根と壁のある車がうらやましかった。藻琴山麓の湖岸の林道ではオーバーヒートしたバイクにフキの葉で湖の水を掛けて冷やした。津別峠の林道では道を外れて路側に落ちてしまい、元に戻すのに四苦八苦した。小清水原生花園付近では居眠り運転で道を外れて草の中に突っ込んでしまった。それらの時に早くも運を使い果たしてしまったのだろうか。

登山への目覚め

桂月岳より 影は父と私

・山には高校時代に兄からさそわれて無華山に登った時点から興味を持っていたし、林道ツアーをやっていた時も仁頃山 ( 829 m) の山頂までバイクで登ったり(押し上げただけですが)、藻琴山 ( 999.9m ) や摩周岳にもバイクで挑戦したり(パンクして弟子屈まで約 10km をバイクを押した)と山に向かっていた。

・学生時代はワンゲル部に入り本格的な登山をやるつもりだったのだが、実際は仲間とジンギスカンやビールを担いで登り、山の上で宴会をすることが多かった。ワンゲルとはそういうところだったのだ。しかし、これはこれで楽しい学生生活だった。

就 職

女満別駅の貨物列車ですが

・3 月 31 日、家族に見送られ、SL の夜行列車「大雪1号」で札幌へと旅立った。明けて 4 月 1 日、札幌での入社式、電気技術者としてのサラリーマン生活が始まった。

・そのときの SL の乗り心地は先頭客車だったせいか、幼いころ母の実家に行くときの、叔父の操る馬そりの乗り心地に似ているなと思ったことを覚えている。

・就職してからは、無線設備や制御システム、コンピュータシステム端末などの維持管理に従事し、札幌を経由して函館で2年弱、その後、東京に転勤してコンピュータシステム技術者(今でいう SE)の道に入ることになった。

写真との出会い

YASHICA Lynx-14

・父もカメラ好きで「YASHICA Lynx」を大切にしており、学生時代はよく借りて持ち出していた。また兄の ASAHI PENTAX SP も借りて使っていた。家には写真を焼き付ける装置が一式そろっており、父や兄から教わって一通りの作業ができるようになった。

・そんな環境もあり、林道中心に写真を撮り続けていたが、就職して最初のボーナスでやっと自前のカメラを購入することができ、それからは撮影を目的として出かけるようになった。

函館の撮影活動

小沼の散策路で これも今は昔

・初めての自分のカメラは OLYMPUS が M シリーズから OM シリーズに名称変更した直後で OM-1 とレンズは 28mm、50mm、135mm のいわば標準セットだった。

・その後、函館にいた2年ほどの期間に MAMIYA C330、TOPCON HORSEMAN 980 を入手し、一気にブローニーの世界に飛び込むことになった。

・撮影対象は大沼公園、恵山~椴法華村などの海岸、松前~奥尻島など道南地域を中心に休日をフルに活用して、これも兄から借用した HONDA Z で走り回った。

東京の撮影活動

梓川と奥穂高岳

・東京に転勤し、国分寺に住むことになり、あこがれの日本アルプスへの距離がグンと近くなった。早朝に北岳肩の小屋を出発して、昼前にはもう国分寺の自分の室にいたことにあたらめて驚いた。北海道ではあり得ない事。

・このころは、撮影よりは登山の方がウェイトが高く、OM-1 に買い足した OM-2 を加えて 35mm カメラを多く使っていた。北海道と異なり、メリハリのある山容は撮影対象に恵まれており、登山の途中に立ち止まって撮るような姿勢では素材の多様さ、奥深さに対する自分のスタンスが定まらず、結果としてろくな写真が撮れなかったことを覚えている。

・仕事の方も、高度経済成長の真っただ中ということもあり、出勤の有無にかかわらずほとんど 365 日仕事が頭から離れなかった時期だった。朝5時前に職場の守衛さんが入り口のカギを開けるのを外で待ったことが何度もあった。懐かしい思い出になっている。

黎明期のテーマ

「チミケップ湖」

・北見市の南、阿寒湖との中間あたりの山奥にあるひっそりとした小さな湖がある。ここをテーマにしばらく撮影活動を続けていた。途中から就職で函館に住んだり、また東京に転勤したが、北見に里帰りした折りには必ず、このチミケップ湖を訪れていた。

・ここでは主に HORSEMAN 980 を使い、69 判が多かったように思う。三脚をたて、すりガラス越しに上下左右逆像を頭の中で解釈し、構図を考えた後は自分のイメージに合った雲と、湖面のススキのゆらぎと...1日に数カットしか撮れないことが多かったと思う。心豊かな充実した時間を持つことができた。

阿 寒

パンケトー湖

・阿寒や屈斜路湖は北見から近かったこともあり、訪れる機会も撮影の機会も多い地域だった。北見からだと入り口は美幌峠、釧北峠、津別峠、少し遠回りになるが藻琴山も入り口だった。撮影のポイントはフィルムの量からすると津別峠とオンネトーが多かったように思う。

・北見市内のはずれにある「緑ヶ丘公園(当時は"緑ヶ丘霊園"だった)」の最上部からは阿寒の山並みを見ることができる。加えて遠くには知床のスカイラインを確認することもできる。時々訪れては阿寒の山々のその意外なほどの近さを感じていた。

知 床

知床林道(昭和40年ころ)

・北見から知床まではバイクで約3時間半かかった。北見は道路事情が良くない時代にあっては、内陸の地域と考えられていた。海岸の網走まで出て、小清水原生花園をほぼ中間点とする距離はやはり遠かった。

・それでも撮影に行く機会は多くあり、ダートの林道を走ってカムイワッカ川まで行ったり、羅臼岳に登山したりといった活動の記録が色あせたフィルムに残っている。重い装備にあえぎながら登山し、途中、銀冷水というところで日が暮れてしまい、三角テントを張って泊まった記憶がある。また雪渓上部にチシマギキョウを見つけ、その美しさに感動したことも記憶している。

武華山

層雲峡側から望む無華山(右)

・北見市内から遠く石北峠の方向を望むとその右横に2つの山が見える。この山のスカイラインを眺めながら暮らしていたといえるほど身近な景色で、石北峠のすぐ北に武華山 ( 1,759m )、その隣に武利岳 ( 1,876m ) と、オホーツク沿岸地方では最高峰に位置する。

・始めて登った山が武華山だった。途中のライオン岩には高山植物が密生しており、中でもキバナシャクナゲの群落はみごとなまでの規模だった。

そしてこれから

近くの森林公園内の散策路

・札幌に居を構え、仕事の第1線を退いたものの、悠々自適の生活なんてのは夢のまた夢で、とりあえず働き続けている。今までとは異なり、ギヤを2段くらい落として余裕を持った気持ちで生活したいと思っているのだが、なかなか理想は遠い。

・過去のそして現在も私の写真のメインテーマは人間の生活圏から離れた大自然だが、かつて人々が暮らしていた痕跡や林道など、自然と人間の接点の領域もこれからのテーマと思っている。

※ 2010年・平成22年・61才

撮ることの再認識

厳冬期の常呂川

・年をとると、やむをえないこととはいえ記憶力や体力が衰えるだけではなく視力も衰える。それによって活動領域も狭まってくる。そんなとき創造的な能力を発揮できる写真は魅力ある趣味だと思う。

・重い大型カメラや三脚を担いで山に登るといったスタイルではなく、車を使って移動する撮影スタイルやスナップカメラを使った作品など、工夫する余地はたくさんあると思う。

※ 2010年・平成22年・61才

残りの時間

野幌森林公園

・2002 年(平成 14 年)に病を患い、山から遠ざかっていたが、幸いにも 2014 年(平成 26 年)になって登山を再開できるまでに体力が回復した。以降、山に登れる楽しさが優先している。

・しかし、70 歳を目前にして、体力を要する登山ができる時間も残り少なくなってきたので、今のうちに登っておかなくちゃという視点で登る山を選んでいる。

・技術の進歩により山道具も写真機材も軽量化が進んでいる。ギリギリの選択の中でできるだけ充実した写真機材を持参できるよう工夫をしていきたい。

※ 2018年・平成30年・69才

70 歳

山梨県忍野村にて

・2019 年 1 月、ついに 70 歳というラインを越えてしまった。そこを見据えて昨年はそろそろ登山の区切りになる山行をと計画していたものの、天候不順と一過性全健忘という体調不安要素のため、結局、満足な成果を上げることができず、このまま終わってしまうのかもしれないという不安を抱えたまま冬になってしまった。

・しかし最後にどうしても登っておきたい山がいくつかある。そのため春に向けて登山(撮影行)計画を何度も見直しているが、いままでと異なり体力の衰えという要素が大きくなっている。どうしても安全サイドに考えてしまうのだが、その流れで計画を後退させていくと最後には山に行けなくなってしまう。ここに至って自分の現在の実力を客観的に評価することの難しさを感じている。まさに山を見たければ先ず自分を見よということかなと思う。

※ 2019年1月・平成31年・70才

72 歳

チミケップ湖

・6 度目の年男ということになった。もう次回はないだろう(無いかもしれない)。

・左は半世紀も前から撮り続けているチミケップ湖に昨秋訪れたときの写真。山に登らなくてもこんな風景が撮れるんだよと言ってくれているような気がする。春にむけて意欲的な計画を立てながらも、ふと、そろそろ区切りをつける時期なのかなという考えが脳裏をよぎる。

※ 2021年1月・令和3年・72才

2022年

緑のシャワー

・2022 年になってしまった。時は待ってくれない。

・コロナ禍で地方に撮影に行く機会も減り、ここのところホームページの更新が停滞している。

・似たような他の作業が増えたことも原因で、実際パソコンの前に座る時間が増えており、オーバーワークになっている自覚もある。何とか仕事を整理して身軽になりたいところなのだが、なかなか事情が許さない。今年はその整理をどう進めるか...

※ 2022年1月2日

2023年

摩周湖夜明け前

・昨年の正月に、"今年はデスクワークの整理を" と思ったものの、自分の都合を押し通せない事情もあって、そのままになってしまった。しかし、もう後がないとの実感もあり、今年は無理をしてでも自分の環境を変えることにした。

・この1年の間に体調の悪化も進み、登山どころではなくなってしまった。この状況で何をやりたいか、どこまでできるかを考えていきたい。

※ 2023年1月31日

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